井伊直政

1561年(永禄4)直親の子として生まれる。父が主君今川氏真によって討たれたのち、直政も殺されるところを新野左馬助によって匿われた。新野左馬助が1564年(永禄7)討死すると、再び殺害されそうになる。しかし、出家したために免れる。母の再婚先の松下清景のもとに養われていた。家康に仕えたのは、1575年(天正3)2月15日。松下姓から再び井伊姓に改名の命ありて、旧領の井伊谷を賜った。1576年(天正4)武田勝頼との対戦にて初めて出陣、手柄をたてた。1582年(天正10)本能寺の変のときには、堺から三河までの道中を家康に従い護衛に務めた。直政は、特に家康に気にいられていた節がみられる。直政の軍団を強化するために、木俣守勝・西郷正友、椋原政直の3人を補佐役に付た。更に武田の旧臣を多数井伊軍団に取り入れたもした。この旧臣の武具は、赤色をするよう家康より命じらた。1584年(天正12)長久手の戦いの時には、先陣となる。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いのときには、家康の4男であり娘婿の忠吉とともに出陣。福島正則を謀って、先陣をきった。しかし、戦の後半にて島津軍と戦い、負傷。家康自ら薬を与えた。関ヶ原ののちは、佐和山(滋賀県)を与えられ、18万石を領した。1602年(慶長7)2月1日、関ヶ原の傷が原因で死去。42才。法名「祥寿院殿清涼泰安居士」。和歌山県伊都郡高野町高野山の高野山奥の院の廟のなかには宝篋印塔があったが、残念ながら廟は開くことが出来なかった。

墓所

1.静岡県浜松市北区引佐町井伊谷の龍潭寺

2.滋賀県彦根市古沢町の清涼寺

3.滋賀県彦根市中央町の長松院

4.和歌山県伊都郡高野町高野山の高野山奥の院

5.群馬県某所