松平康親

松井忠直の子。1521年(大永元)三河にて生まれる。初め松井忠次と名乗る。家康の命により、東條松平亀千代の家老となる。家康のもとにて、たびたび戦功があり、姉川合戦のまえには「松平」の姓を名乗るのを許される。姉川・長篠にも出陣。その後、諏訪原城を守るにあたり、家康より一字を与えられ「康親」と名乗る。諏訪原城は当時、武田勝頼の高天神・小山・田中の城に囲まれる形で最も敵の標的になりやすく、他のものは誰も入城したがらなかったが、康親のみが自ら城主となると進み出てた。さらにこの時、周の武王が殷の暴君紂王を牧野にやぶった故事により、城を「牧野原城」と改めることと、周の字をもって「松平周防守康親」を名乗るよう、家康より指示があった。武勇を賞しての計らいだった。康親これによくこたえ、これから7年間たびたび武田軍に攻められるもついに守り通した。武田滅亡後、駿河国が家康の領地となると、北条氏の備えとして、三枚橋城を守る。1583年(天正11)6月17日没。63才。法名「巌譽豊月崇輝空閑院」。茨城県笠間市笠間の月崇寺の写真は、手前の板碑形が康親墓。

墓所

1.茨城県笠間市笠間の月崇寺

2.愛知県幡豆郡吉良町駮馬の法応寺跡

3.静岡県沼津市本字出口の乗運寺