正信の2男。1610年(慶長15)11才のとき家康に拝謁。1623年(元和9)7月家光が上洛したとき、病の父に代わり拝謁して富士川まで送る。1642年(寛永19)機内及び西国の巡視のとき、驕慢な性格が災いして改易となる。1651年(慶安4)10月17日赦され、のち御勘定役に復職。1665年(寛文5)12月5日没。法名「本修院殿了義日詮居士」。下の写真、東京都某所の写真の宝篋印塔には、正信・正員の法名が刻まれている。
墓所
1.東京都某所
2.静岡県富士宮市北山の本門寺