徳川忠長
家康の孫にて、秀忠の子。家光の弟にあたる。1606年(慶長11)5月7日江戸城内にて生まれる。母はお江与の方。幼名国松。父母の寵愛を一身にうけたため、兄家光との間に軋轢を生じた。母の死後、禁猟地区にて猿を狩るなどの乱行の数々が伝えられている。乱行はいろいろ伝えられているが、真偽のほどはわからない。ただ、母の死と父秀忠の病状悪化にともない精神的に不安に陥り、逸脱した行為を行ったことは確かである。ゆえに1631年(寛永8)秀忠より甲斐に蟄居を命じられた。秀忠が死ぬと、高崎の安藤重長のもとに幽閉された。1633年(寛永10)12月6日、命により切腹した。させられた、といったほうが正しい。28才。 群馬県某所の写真は、墓石正面には、妻の実家吉井家、側面に忠長の法名等が刻まれている。
墓所
1.群馬県高崎市通町の大信寺
2.京都府京都市左京区黒谷町の金戒光明寺
3.神奈川県鎌倉市扇ガ谷の薬王寺
4.静岡県某所
5.群馬県某所