1608年(慶長8)江戸生まれ。対馬宗家の家老。始め、家康の小姓。妻は、主君・宗義智の娘。妻の兄でもある主君宗義成と対立。柳川一件という事件を起こす。1635年(寛永12)将軍徳川家光の御前にて、宗義成と口論するも敗訴。津軽に流罪となった。1684年(貞享1)10月1日没。法名「松厳院殿孤山初白居士」。弘前市の長勝寺に墓石が2つあり、自然石のほうには晩年名乗っていた「柳川智保」が刻まれていた。
墓所
1.青森県弘前市大字西茂森の長勝寺